1/200 南極観測船「宗谷」製作記

          昭和34年2月頃  第3次観測時    写真提供:かかし氏

1. 南極観測船「宗谷」について


 「宗谷」は、戦後間もない日本が国際舞台への復帰を果たすべく、未知の大陸「南極」へ送り出した初代南極観測船です。

ソ連の船から日本の船へ

 元もと「宗谷」は旧ソ連の耐氷型貨物船「ボロチャエベツ」として昭和13年2月(1938)に進水した船でしたが、日中戦争の泥沼化により旧ソ連に引き渡さないまま「地領丸」として辰南商船によって運航されていました。

海軍の特務艦「宗谷」として

 折しも海軍が、海図作成の水路測量艦として耐氷型の「地領丸」に注目し、昭和14年11月(1939)測量艦として買い上げられました。
「地領丸」は測量業務を行う海軍の特務艦として改造され、昭和15年2月20日(1940)海軍所属艦艇の命名慣例により「宗谷」と変更されました。
 昭和15年6月4日、ついに特務艦「宗谷」が完成し、同年11月に南方測量業務を行うため、サイパン島へ向けて横須賀を出航します。
 昭和16年12月8日(1941)太平洋戦争が始まり、「宗谷」も攻撃を受けるようになります。付近の艦船が大きな被害を受ける中、なぜか被害を受けることがありませんでした。しかし、昭和18年1月28日(1943)早朝、アメリカ軍の潜水艦に魚雷攻撃を受けます。1本が「宗谷」に命中! ところが、不発弾だったため難を逃れます。直ちに爆雷を投下して反撃し、潜水艦を撃沈しました。
 次第に戦況が不利になりだし、昭和19年2月17,18日(1944)アメリカ軍の艦載機によるトラック島大空襲で壊滅的な打撃を受けます。「宗谷」は回避行動中に座礁してしまい、激しい攻撃を受けたため総員陸上に退避しました。翌19日、静けさを取り戻したトラック島の泊地に、たった1隻生き残ったのが「宗谷」でした。損傷も航行に支障がない軽微なもので同年4月に横須賀に戻ってきます。
 昭和20年(1945)になると戦局はますます悪化します。「宗谷」は、もはや測量業務どころではなくなり、他の輸送艦と共に軍需品の輸送に従事しますが、攻撃を受けて行動を共にする他の輸送艦が沈没したりするのに、なぜか「宗谷」は難を逃れます。
 そして、ついに昭和20年8月15日に終戦を迎えますが、常に最前線で戦い続けた「宗谷」は奇跡的にも生き残って室蘭でこの日を迎えました。

引揚げ船として

 戦後「宗谷」はGHQの管理のもと、引揚げ船としての業務に携わります。南方の島々や上海、台湾、ベトナムそして、旧満州などから約19,000人を輸送し、昭和23年11月6日(1948)全ての引揚げ業務を終了しました。

海上保安庁の灯台補給船として

 昭和24年(1949)海上保安庁の灯台補給船に空きが出来たため、「宗谷」は同年12月12日付けで海上保安庁灯台部に移籍され、翌昭和25年4月1日(1950)真っ白な船体に海上保安庁のファンネルマークを描いた、灯台補給船LL-01「宗谷」として全国各地の灯台に必要物資を届ける業務に就きます。
 5年半ほど灯台補給船として各地を回った後、昭和30年(1955)夏頃、耐氷構造の「宗谷」に南極観測船として白羽の矢が立ち、同年11月に正式に決定されました。そして、12月24日に灯台部所属の灯台補給船から、第三管区海上保安本部所属の巡視船に配置換えとなり、南極への第一歩を踏み出しました。

南極観測船として

 「宗谷」の南極観測船への改造は、海上保安庁船舶技術部の水品政雄部長を中心に砕氷能力1メートルの砕氷船にする基本計画の作業が行われました。しかし、前代未聞の大改造を少ない予算で短期間に行わなければならないことに大手造船会社が後込みしてしまいます。そんな中、昭和31年2月14日(1956)、修理工事を専門に行う日本鋼管浅野ドックが工事を落札しました。改造工事は予想以上に手間取り、昼夜を問わず突貫工事で10月10日の引渡ぎりぎりに完成します。鋼鉄の鎧を身にまとったオレンジ色の船体は、光り輝いていました。
 昭和31年11月8日、雨の晴海埠頭から南極へ向けて「宗谷」は出航しました。途中フィリピン西方洋上で二つの台風と遭遇しましたが、12月19日に随伴船「海鷹丸」と共にケープタウンに無事入港しました。29日にケープタウンを出航し、いよいよ魔の暴風圏へ突入します。ビルジキールを持たない「宗谷」は振り子のように揺れましたが、昭和32年1月4日(1957)暴風圏を突破します。この日初めて氷山を確認し、南氷洋に到達しました。10日、密群氷の縁まで到着し、これから先は氷との闘いとなります。16日、進路を決定し、砕氷前進を開始します。20日、氷はさらに厚くなり、チャージングやダイナマイトで爆破しながら、さらに奥へと進みます。24日、ドスンという鈍い音がして「宗谷」は南緯69度、東経39度の地点に接岸します。そこは、先進国が7回接岸を試みて失敗し、「接近不可能」とされたプリンス・ハラルド海岸でした。翌25日に荷物の陸揚げを開始します。
 昭和32年1月29日(1957)オングル島に公式に上陸して、そこを「昭和基地」と命名、今日に至るまでの礎を築きました。
 その後「宗谷」は、氷に閉じこめられても、スクリューの翼が折れても、南極に挑み続け、昭和37年4月17日(1962)6回に及んだ南極観測船の役目を無事に終了しました。

北の海の巡視船として

 南極観測船としての役目を終了した「宗谷」は通常の巡視船として復旧工事を受け、再び白い船体となって8月1日より北海道に派遣されます。
 昭和38年3月(1963)から正式に第一管区海上保安本部に所属する巡視船として、もと南極観測船の砕氷能力を生かして、北の海で活躍することになりました。それまでは困難であった氷に閉じこめられた漁船の救出や冬期の北洋における医療活動、流氷観測などに大きな威力を発揮し、「北の海の守り神」とまで呼ばれるようになりました。
 頼りになる「宗谷」でしたが、竣工から40年が経過した昭和53年7月(1978)ついに解役が決まります。昭和53年10月1日午後3時、満船飾に身を包んだ「宗谷」は40年にわたる数奇な生涯を閉じました。
 解役が決まった時、「宗谷」をぜひ保存したいという声が各地で沸き起こり、最終的に東京の「船の科学館」が保存先となりました。



詳しくは「船の科学館 資料ガイド3 南極観測船 宗谷」をご覧下さい。

ちょっと気になる資料

メニュー

はじめに
1.南極観測船「宗谷」について
2.資料集め
3.船体部品図面の作成
4.船体の製作 その1
4.船体の製作 その2
4.船体の製作 その3
4.船体の製作 その4
5.ブリッジの製作 その1
5.ブリッジの製作 その2
5.ブリッジの製作 その3
6.ヘリコプター甲板の製作
7.前部マストの製作
8.後部マストの製作
9.煙突、その他の製作
10.救命ボートの製作
11.ウィンチ類の製作 その1
11.ウィンチ類の製作 その2
12.シコルスキーS-58の製作
13.DHC-2ビーバーの製作
14その他の製作
検討資料

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